季節の椅子
前の記事が2019年の暮れだから、随分ご無沙汰してます。
しばらく離れてるとなかなか書くのがおっくうになるものですね。
2021年は放送大学の前期授業で「椅子クラフツ」を受講しました。
8回も椅子の話って。。。と思いましたが、
経済学、社会学、心理学、歴史、と様々な展開があって
なかなか面白い授業でしたよ。
さてこの授業で最後にレポートを書く必要があったのですが、
600-800字と制限があったため、勢い余って2本書いてしまいました。
図書館の椅子の話と、twitterでおなじみ「季節の椅子」の話。
結局一応レポートの体をなしている図書館椅子の方を提出しました。
どう考えてもレポートではなくエッセイになってしまった
季節の椅子の話をここに置いときます。
(ほんとに全然レポートにはなってない)
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ソローは「ウォールデン」の中で、
いらないものをそぎ落としていった生活で残った3つの椅子
「孤独の椅子」「友情の椅子」「社交の椅子」
を挙げている。
しかし、森に引きこもっているわけではない我々が生活する中でかかわる椅子は、
職場、学校、駅やショッピングモール、カフェ、乗り物のシートにいたるまで
多種多様である。
そうした生活の中で出会う椅子は
この「3つの椅子」のどれに対応するだろうか。
この何年か通勤途上で観察を続けている椅子がある。
それは京都・西陣にある小さな観光施設の庭の中に置かれた白いガーデン用チェアである。
何の変哲もない大量生産品の椅子なのだが、
椅子の置かれているたたずまいと、それを取り巻く庭の様子が素晴らしいので、
季節の変化を感じるたびに写真を撮り続けてき
作りこまれ過ぎず、
しかし季節ごとの花が咲くよう配慮された美しい庭。
しかしこの椅子がなければこれほどこの風景に心惹かれることはなかったであろう。
不思議な事にこの椅子に人が座っているのを見たことがない。
また自分が座ってみようと考えた事もない。
誰も座らない椅子。
しかし恐らくここを通り過ぎる人々のうち何人かは、
「この椅子に座る自分」を想像しているのではないだろうか。
少なくとも自分はそうである。
そこに自分が座ることを想像することにより
自分との対話を行う「孤独の椅子」と言えるのではないだろうか。
ただ、この椅子が完全な「孤独の椅子」といえないのは、
庭が公道に面しているため、
つねに社会からの視線を受けているからである。
そうなると、
「この椅子に座る自分、それを見る道行く人」という
関係性が想像され、ある種の「社交の椅子」ということになろうか。
実際に座るわけでもない椅子であれこれ妄想しているにすぎないのだが、
机ではあまりこういう想像はしないので、
やはり「人が座る」ことを前提としたものは、
座っている人とセットであれこれ想起させる力を持っているのである。
残暑とマリメッコ
さてさて遅い夏休みで、
とはいえ旅行の予定もなく、
去年同様中之島の美術館めぐり
(といっても2つだけ)に
行ってきました。
一つは国立国際美術館の
「ウィーン・モダン:
クリムト、シーレ 世紀末への道」
例のクリムト展が近所に来なかったので、
せめてこちらに行きましょう、
と見に行ったのでした。
もう一つは東洋陶磁美術館で
&「マリメッコ・スピリッツ」というのを
やってまして、
東洋陶磁については特になにもなくても
年に一度はいくべきと定めているので、
一緒に見ることにした。
大阪で働いてた頃と違い、
最近は電車に乗ってどこかへ行くことが
極端に減ってしまいましたねー。
経験値を上げるために、行きは京阪、
帰りは阪急で帰る(笑)
ところで私はものすごい方向音痴なのですが
(本当にひどい。そのうえ道を訊かれやすい
ので、でたらめ教える)
案の定、渡辺橋で降りて反対方向に
歩いて行ったのだった。
で、ローソンの店員さん、お昼を買いに来た
サラリーマンのお兄さんなど、
いろいろな方のご助力で
なんとかたどり着いたのでした。
(てか去年行ったじゃないの。なぜ迷う)
これだこれだ。
(みんな国際美術館ではわからなくて、
科学館のとなりの・・というと
わかってもらえるのだった)
いかにもクリムトですな。
そこに至るまでのウィーンの美術についての
展示でした。それはそれで面白かったのだが。
メッテルニヒの革のブリーフケース
(大きい!かわいい模様がある!)のような
意外なものもあった。
あと、オットー・ヴァーグナーの
建築デザインとか家具とかがよかったですね。
(この建物の人)
行ってしまった。
いやー36度超えてたので、
あまりあちこちしたくなかったのよ。
オムライス、おいしかったです。
で、元気を出して難波橋(駅名にみんな橋が
つく中之島)の東洋陶磁美術館へ。
こちらはついでっぽく行ったのだが、
非常によかった。
フィンランドの陶芸って
かわいいのが多いですね。
(これは猫。みょーんとしている。
うなぎっぽい)
思いがけずルート・ブリュックも出ていて、
ゆっくり見れましたよ。
そしてこれがマリメッコ茶室。
ここは常設も素晴らしいし、
(油滴天目、飛青磁などなど)
川の近くでゆったりとした気分にさせて
くれます。
この方も相変わらず回転しておられたし。
写真撮り放題で、PiTaPaで割引あるし、
大変けっこうでした。また行こう。
しかし残暑というには暑すぎた一日。
自分へのお土産に渋いおぢさまTシャツ
(by Egon Schiele)買いました。
結局猛暑なのか冷夏なのか
なんか旬刊と化していて
申し訳ございません。
8月の前半は無茶苦茶暑くて
40℃?とか思ってましたが、
今は梅雨入りでしょうか。
(と言っても、もう一度38℃をやらかしたい
わけではナイ)
なんか変な気候だね。
農作物に影響が出なければ
いいのですが。
私たちは、地蔵盆も無事終わり、
恒例の妹一家との飲み会も終わり、
気分は秋モードです。
9月は遅い夏休みで、
いくつか美術展を回る予定。
楽しみです。
萩尾望都の「AWAY」
萩尾望都の「AWAY」(全2巻)は、"flowers" 2013年6月号から2015年8月号にかけて
連載されたSF作品です。
萩尾作品は大概単行本化してから
追いかけているのですが、
これは読み損ねていました。
たまたま電子版1巻が無料で読めたんで
DLしたら、面白くて結局紙本で揃えることに。
ヒントを得たもので、
ある朝急に世界から18歳以上の大人が
いなくなってしまう。
残された子供たちの生きていくための戦いが
始まるのだが・・・。
子供だけが残されてサバイバル、というのは
(どっちも読んでナイ)多々ありますが、
感じたけど、自分だったらムリ!
こんなにしっかりしていないとか
いろいろ思ってしまう。
(というか根本的にサバイバル能力がないので
5ページ目ぐらいで死ぬ)
でもこの物語には納得の設定があって、
「大震災」のあと、
子供たちも災害時のサバイバル訓練を
受けていたので、
ある程度のことはできてしまう。
(大型車の運転、赤ちゃんの世話、
大量炊事・・・)
状況はかなり深刻で、みんな必死なのだが、
おかしくなる子供や、
もともとおかしいのもいるし、
死んじゃったり殺しちゃったりするし、
かなりううとなるシーンもあるのだが、
これは登場人物がみんな若いからか、
ある種の明るさがあるの。
(主人公の女の子は「11人いる!」の
フロルベリチェリ・フロル似)
(11人いる!は続編と合わせて自分的にはもうMASTERPIECE)
そして大人だけが残された「HOME」でも
起こりうる状況がよく書けている。
(いやだねー、でもきっとそうなるねー、
という感じ)
2巻を入手待ちの間に、
小松左京の「お召し」のほうを電書で
読んでみたけど、
よくこの短い話から展開したなあ。
で、2巻。
ネタバレになるのであまり言わないけど、
不気味な白い少年が出てきたり、
食料不足が深刻になってきたり・・・。
いろいろありますが、
宙に放り投げられたというか、
大きな宿題をもらった感じで
突然(と言っていいと思う)終わります。
個々の登場人物が結構好きなので、
続きがあれば読みたいのですが__
そして書こうと思えば書けたのではないかと
思うけれど、ここで終わるしかなかったの
かもしれない。
(これ以上書くと完全に「お召し」から
離れてしまう)
主人公以外でポイントとなる人物は、
自分にとっては河津くんで・・・。
彼は、状況的には誰かがしなければならない
ことをしたのだが、
もう元の彼ではない。
重いものを背負ってしまったなあ。
静かで目立たないが、大きな人。
しかし18歳までしかいない世界というのは、
人を早く大人にしてしまう。。。
もう一つ気になるのは、
あのうっかりAWAYの世界に残ってしまった
大人のおじさんは永遠に
(AWAYとHOMEが合体するその日まで)
戻れないんだろうか。
そして、そして、未来が「そうならないには」どうすればいいのか。
春るるる。
さて、ご無沙汰しております。
なんかバタバタしてて、
超低浮上となっておりますが、
げんきです。
年度も変わるし、ブログのほうも
再開しましょう、と思っています。
(思っています)
ゆっくり本を読む時間を作って、
ゆっくり考える時間もできますように。
放送大学のほうは、
そろそろ内容を絞って、
心理学と社会学の境目みたいなことを
勉強していこうかと
思っています。
もうすぐ桜が咲くけれど、
去年の台風で随分ダメになってしまい、
どうなるかなあ。
(これはお菓子の桜。これをtwitterにあげたら、結構海外の人からいいね、をもらったのだが、砂糖でできてるんだ。砂糖なんだよー・・・オレの語学力(。。)
お別れとあたらしい出会いの
交錯する季節に。
チーズとうじ虫
11月は家族の思わぬ入院騒ぎで
ブログをすっ飛ばしてしまった…って
もう年の暮れだよ!
そして来月末には放送大学の
単位認定試験である。
なにもしていない。なーにもしていない。
今回は「ヨーロッパの歴史1」で、
暗記テストではなく、いくつかお題が出て、
好きなの選んで論述するというもの。
持ち込み可なので、先にヤマ張って
文章作っとく。
なにが出るかは過去問を分析。
古代から近代までかなり幅広い範囲だけど、
そもそも中世をやってみようと思ってたので、
そのへんやってみまっす!
しかし中世に関する自分の知識としては、
映画「薔薇の名前」ぐらいのもんなので、
(寒そうだね)
もうちょっと補強しましょう…。
(教科書を読み返すとかしない人)
カルロ・ギンズブルグ
「チーズとうじ虫」
父親の蔵書の中にあって、
子どもの頃から「変わった題名やなーっ」と
思ってた本です。
大人になってから、中世ヨーロッパの
話と知った。
現在のイタリア北部、フリウリ地方の
粉挽き・通称メノッキオ。
【自分の頭で考えた】様々なことを、
まわりの農民たちに語ったため
異端の疑いをかけられ、
最終的には火炙りにされてしまうのだが…。
どんなことを言ったか
「すべてはカオスで、チーズからうじ虫が
わき出るように、カオスから天使が出てきた」
「処女懐胎はありえない」
「キリストは人だ」
と、教会からするととんでもないことを
周りの農民たちに言い、議論を吹っかけた。
当時の粉挽きは、インテリだったのかな。
そうでもないのか。
でも彼は、読み書きができた。
そういうことを教えてくれる学校が
あったようだ。
メノッキオが独創的な考え方を
持つに至ったのは、
この時代、印刷術の発達により、
多様な書物を手にすることができ、
いろいろな思想や見聞に触れることが
できたからだ。
書物は、自分で買ったり、人に借りたり
していたようだが、
聖書の略述記、マンデヴィルの旅行記
読んでいた可能性がある。
そしてこれらはラテン語ではなく、
民衆の話し言葉で記されていた。
知識は限られたエリートだけのものではなく
一般の人々のところまで
下りてきていたと言うこと。
普段農民たちに自説を語っていた
メノッキオが、【博学な】【知識階級の】
聞き手である異端審問官との討論を
ある種の陶然となる体験と捉えていたと
いうのは、皮肉で面白い。
(ヤバイながらもやっと歯応えのある
論戦相手ができたというところ)
ところでメノッキオの住んでいた
フリウリ地方は不思議なところで、
古い農耕儀礼のなごりである
「ベナンダンティ」といった人々がいたり、
地元の教会があまり中央の言うことを
聞かなかったり、
違う文化と隣接してるためか、
少々変わったことでも容認する
空気があったようだ。
(最終的には異端とされるにせよ)
(ほんとにイタリアの端っこ)
だから農民たちもメノッキオが
(またヘンなこと言ってる…)ぐらいに
思っていたようだ。
(←告発したのは仲が悪かった司祭。)
なぜメノッキオは語らずには
いられなかったのか。
知る喜び、考えを組み立てたり、
人に自論を語る愉しさを
知ってしまったから?
……
さてこれは、読み返し型読書に
なりそうなので、行きつ戻りつ
ゆるゆる読むことにします。
(間に合うのか)
でも、
人と違うことを考えたり、言ったりすると
殺される世界って、怖いですよね。